死別当時26歳の私享年52歳の母
「 家に帰りたい。連れて帰って。 」それが母から言われた最期の言葉だった。
亡くなる1年と、3ヶ月前、
「 健康診断の結果、肺に白い影があるらしいんよね。」看護師である私に一番に母は相談してきた。私はその時点で頭によぎったのは '' ガン ''の二文字だった。とにかく早く近くの病院に受診するよう伝え、そこで大きい病院へ紹介状を書いてもらい、受診することになった。詳しい検査をしていくうちに、肺に癌があることがわかった。それを聞いた瞬間、医療従事者である私は最悪の事態を考えなければないかもしれないと思いひとりで子供のように泣いた。母は「 ごめんね。手術頑張って、まだまだみんなと生きていきたい。」泣きながら私に伝えてきた。
それから1ヶ月もせず手術をした。早期で間違いないと言われ家族みんな安堵したのは束の間、一週間後の受診でリンパに転移していたことがわかった。母はよく自分の病気について調べていた。私は仕事柄今がどういう状況なのかなんとなくわかっていた。しかし、他の家族は治ると信じていた。母と私だけ表情は暗かった。2クール程、入院しながらの抗がん剤治療を行うが、手足の痺れ、食欲不振が目立ち、手術から1年仕事ができず自宅療養していた。その頃の定期受診で血液検査の結果が悪く、脳と腰に癌が転移していることがわかった。母は手術からの1年も苦しんだのに、治療頑張ったのにと悔やんでいた。そして、また入院生活が始まった。でももう1ヶ月も経たないうちに目が見えなくなり、連絡もとれなくなった。やっと電話ができてももう母には生きる気力は残っていなかった。
亡くなる1ヶ月前にいつ逝ってもおかしくないと医師に言われ、面会ができる緩和病棟がある病院に転院することにした。声で私とわかり、「 ストイックになりすぎずに、たまにはお父さんを頼ってね。」と言われた。亡くなることを母自身もわかっていた。その言葉に、自分を追い込みすぎて悩んでしまう私を心配し応援してくれているんだとわかり涙が止まらなくなった。それ以降弱っていく母を見て泣いてしまう自分を見せたくなく、次の面会を最期にしようと決めた。その時に最初に書いたように家に帰りたいと母の本音を聞くことになる。私は看護師だからどうにか実家で看取ることはできないかとも考えた。しかし私には10ヶ月の息子が居た。現実に厳しいと思い、母の願いを叶えられなかった。それから1ヶ月程して母は亡くなった。
3月13日。私の27歳になる誕生日の前日だった。棺桶の中に居る母を見て、この先母との思い出は更新されることも母から誕生日におめでとうと祝ってもらうことも2度とないと思うと苦しくてたまらなかった。
私が看護師の夢を諦めかけたとき、仕事で悩んだとき、人間関係に悩んだときいつも話を聞いては励ましてくれた。親友のような母だった。人の愚痴を言わず、いつも前向きで家族思いの母だった。母の笑顔が優しさが言葉が字がご飯が全てが大好きだった。生きていた時にもっとたくさん '' ありがとう '' と '' だいすき ''を伝えたかった。亡くなった3ヶ月後に予定してた結婚式で花嫁姿を見せたかった。
周りのお母さんとの日常を目にすると、胸が苦しくなるけれど今までの貴女との思い出を糧に強く生きていきたいです。
そして貴女の死から、いかに平凡に見える毎日が幸せで尊く、当たり前じゃないことに気付かされました。
そしてそして死が怖くなって一度は離れた看護師の仕事。でも離れて私の天職だと気づけたし、なにより誰よりも応援してくれていた貴女がいつもそばにいるんだと今なら信じれるから今頑張ることができています。貴女の娘に生まれてこれてよかった。
いつか会えるその時に、頑張ったんだよって胸はれる私でいたい。それまで空から私たち家族を見守ってほしいです。
今までもこれからも愛しています。
誰よりも尊敬する貴女へ。
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